組込みの輪郭

第7回 徹底予習:AI時代の組込みシステム開発のお仕事

2017.05

「世界のトップ囲碁棋士を破った」「短編小説を書いた」「犯罪者が現れる場所を事前に予測して警察官に先回りさせた」。2016年、ICT業界と電子業界は、まさに人工知能(AI)時代の到来を実感できた年でした。

2017年になっても、AIに対する期待の高まりは衰えるどころか、加速しています(図1)。経営者から「AIを活用して、ビジネスの価値を高めろ!、社員の働き方を見直せ!」といった檄が飛んでいる企業は多いと思われます。

図1 第3次AIブームの真っ只中、でも本番はこれから

ただし、現在のAIほど、過剰な期待が先行し、その実像が正しく評価されてない技術は珍しいと言えます。AIをうまく活用した時の絶大な効果は誰もが知っています。しかし、そうした効果を得るためにAIを活用するユーザー企業がどのような準備をしなければならないのか、またAIシステムの構築や運用に関わるICTベンダーやシステムハウスなどサプライヤーが何をしなければならないのか、驚くほど知られていないのです。

今回は、AIシステムが当たり前のように使われる時代を前に、そのユーザーとサプライヤーのそれぞれの仕事が、従来のICTシステムを扱っていた時代に比べてどう変わるのか解説したいと思います。このコラムの読者は、組込みシステムに関わる仕事をしている人が多いかと思います。AIは、IBMやGoogle、Amazonのような大手ICTベンダーの仕事であり、自分たちとは別の世界の話と考える人もいるかもしれません。しかし、最初に今回の結論を言ってしまうと、AIシステムを生かすも殺すも、組込みエンジニアの双肩に掛かっているのです。ただし、AI時代に適応した新しい組込みエンジニアの登場が待たれているというのが今回の論旨になります。

AIは、これまでとは異質な情報システム

最近、大手ICTベンダーが、競うようにAI関連のセミナーを開催するようになりました。そうしたセミナーは、例外なく満員御礼の状態です。セミナーを開催する企業の方にAIシステムに関連したビジネスの状況を聞くと、実際に多くの実証実験案件、資金、人材が動いていることがうかがえます。AI関連の企業は、2000年代初めのインターネットバブルが再来したかのような活況の中にあります。ただし本格的なAI時代が到来するか否かは、ユーザーがAIの活用法を正しく理解し、サプライヤーが的確な活用を支援する体制を整えられるかに掛かっています。

現在、AIシステムの活用を見据えて、先進的なユーザー企業と大手ICTベンダーが、数多くの実証実験を共同で行っています(図2)。「コールセンターを自動応答にしたい」「需要を予測して先回りして配送準備を整える効率的な物流体制を構築したい」「製造装置の故障を予知して未然に対策したい」「莫大な数の特許明細書や技術文書の傾向を分析して知財戦略や研究開発戦略を策定したい」といった具体的な課題を想定。それに答えを出すためのAIシステムの構成と構築方法、さらには継続的な運用体制を探っているのです。

ところで、百戦錬磨の大手ICTベンダーが、なぜ実証実験などという遠回りな取り組みをしているのでしょうか。それは、AIが、従来のICTとは全く異質の情報システムだからです。その構築と運用では、ユーザーとサプライヤーの双方に、これまでとは別の技術的なスキル、業務フロー、運用体制が求められます。

図2 映像から道路を行き交うクルマをAIで特定する実証実験例

偉大だが、万能でも親切でもない現在のAI

今、AIシステムの導入を考える企業の経営者の多くは、「AIという新しいICTを導入すれば、我が社が直面する問題を魔法のように解決してくれる」と考えているようです。実際、AI関連企業のセミナーに参加する聴講者が問いかける質問を横から聞くと、「AIを万能の問題解決マシン」と捉える、信仰に近いユーザーの姿を感じます。しかし、実際にセミナーを受講し、実証実験の結果に基づくAIのありのままの姿を知った後には、受講前に抱いていた期待が失望や戸惑いへと変わっていきます。

AIのユーザー予備軍が失望と戸惑いを感じた理由は、大きく2つあります。1つは、現在のAIは、特定の作業や処理では圧倒的な能力を発揮するのですが、期待していた万能の存在ではないことが分かったから。もう1つは、AIシステムを導入した後、想定した効果が得られるまでに、思いのほか手間が掛かることが分かったからです。ただし、こうしたユーザーのAIに対する心変わりは、AI関連セミナーを開催する企業が意図したことでもあります。セミナー開催の背景には、ユーザー企業に向けて「AIの導入に際しては、ユーザー様にも相応のお覚悟をお願いいたします」と啓蒙しておく狙いがあるのです。

実は、AIシステムの構築と運用に覚悟が必要なのは、ユーザーだけではなく、サプライヤーも同様です。ICTシステムの構築と運用支援で数々の実績を持つ大手ICTベンダーでも、これまでとは違ったスキルの醸成とユーザー支援体制の構築を進める必要性に迫られています。さらには、AI時代を前にして、ビジネスモデルの再構築を考えるところさえあります。

AIの出来の善し悪しは学習データで決まる

ここからは、AIシステムの構築と運用は、従来のICTシステムとどのような違いがあるのか。また、それを構築するサプライヤーの仕事はどのように変わり、エンジニアにはどのような技術的スキルが求められているのか紹介したいと思います。

まず強調しておきたいことは、AIシステムの出来の良し悪しは、システムを動かすプログラムの出来ではなく、AIを育てる学習データの質と量によって決まるということです。これは、AI時代に求められるサプライヤー像とエンジニア像を考える上での大前提になります。

これまでのICTシステムでは、導入時には既に目的の処理が実行可能な状態になっているのが普通でした。しかし、AIではこの常識が通用しません。大量の学習データを与えて学ばせた後でないと、何の役にも立たないのです。導入直後のAIは、「末は博士か大臣になるポテンシャルを秘めた赤ちゃん」であると言えます。育て方次第で、AIの性能は天と地ほどの差が生じるのです。「パソコンは、ソフトなければただの箱」という言葉がありますが、「AIは、ハードとソフトがあっても、データがなければただの箱」なのです。

しかも、学習後のAIの中で実行する処理アルゴリズムは、どんな優れたエンジニアでも解読不能なものであり、手出しできないブラックボックス状態になります。つまりAIシステムの中核となる高度な分析や判断を実行する部分の構築では、アルゴリズム開発のスキルは不要なのです。この点が、従来のICTシステムとの最大の違いです。

学習データの質と量を確保するシステム

アルゴリズム開発こそが、ICTシステム開発の華であると考える人は多いことでしょう。組込みシステムの開発でも同様です。では、学習データの重要性が高く、開発の華を失ってしまったAIシステムの開発で、サプライヤーやエンジニアはどこで活躍すればよいのでしょうか。その答えは、学習データの調達先や調達方法を熟慮することで見えてきます。

AIの学習データは、地図情報や天候など、公開されている情報から学ぶ部分もあると思います。しかし多くの場合、企業が日々のビジネス活動の中で生み出す情報が学習データになることでしょう。これは、AIシステムの出来の良し悪しを決める要因は、実はユーザー自身が持っていることを意味します。ところが、情報を生み出しているビジネス活動の現場で働く人は、何がAIの学習データとして有益なのか見当もつきません。しかも生み出される情報は、多くの場合アナログ情報で、しかも膨大ですから、学習データを人手で選りすぐることは困難です。

そこで、現場で生まれる情報を集め、AIを育てる質のよい学習データへ加工するための新たなICTシステムが必要になります。ここに、ICTベンダーやシステムハウス、そしてエンジニアの活躍の場があります。

学習データの調達経路は、大きく2つあります。1つはネット上や企業のデータベース内に膨大に蓄積されている様々なデジタルデータです。こうした情報は、従来のICTシステムを使って、学習データに変えることができます。この扱いは大手ICTベンダーのSEの仕事です。もう1つは、家庭やオフィスや工場、そして社会の中で日々生まれる室内の温度、会議での会話、製品の加工品質といったアナログデータをデジタル化したもの。言い換えれば、IoTを使って収集するデータです(図3)。後者の情報を扱うIoTシステムの構築は、まさに組込みシステムのエンジニアの腕の見せ所であり、アルゴリズム開発の質が問われる部分になります。さらにそこでは、情報を生み出す現場に根ざした情報を収集する高度なセンシング技術、デジタル信号処理技術、通信技術が求められます。

図3 生活やビジネスの環境で生まれるアナログデータを現場で選りすぐり、重要データをクラウドに送って学習データとして利用

扱いにくい情報こそAIの大好物

学習データの収集、選別、加工をするシステムを構築するには、ユーザー企業の業務を熟知しているとともに、価値の高いAIシステムを育て上げるための学習データとは何かをキッチリと知っている必要があります。ここが、従来の組込みシステム開発との相違点になります。効果的なAIシステムに育て上げるための学習データを選択するポイントとして、実証実験を行った多くのICTベンダーは、「従来のICTシステムでは扱えなかったようなデータ」と「ユーザー企業だけが保有しているデータ」を挙げています。

従来のICTシステムでは、データベース中のデジタル情報を活用しやすくするため、蓄積する1つひとつの情報の内容を分類するキーワードやタグを付けておきます。こうした人手による分類が可能な情報は、AIの学習データや処理対象にしても価値がなく、むしろ従来のICTで処理した方がよほど効率よく処理できるようです。自然な会話の中に登場する言葉のニュアンスや話し声のトーンに含まれる感情といった、これまで扱えなかった情報こそがAIの大好物だといいます。他にも、見る角度や撮影環境がバラバラでパターン化しにくい人物写真や、読み下しにくい難解な特許明細書なども、同様に価値の高い学習データに該当します。特許明細書などテキストデータを除けば、デジタル情報というより、組込みシステムで扱っているデジタル信号と呼べるものが多いように思えます。

また、特定のユーザー企業だけが持っているデータは、AIシステムを差異化する上でとても貴重な学習データになります。IoTシステムで収集する情報は、おしなべて貴重な学習データであると言えます。大手ICTベンダーは、企業のIT部門を窓口にシステム開発を進めます。これに対し組込みシステムを構築するシステムハウスは、データを生み出す現場の所轄部門と一緒にシステム開発する場合が多いと思われます。このため、組込みエンジニアの活躍こそが、AIシステムの効果的活用の鍵を握ることになります。余談ですが、日本では世界に先駆けて少子高齢化が進んでいます。このため、未来の世界が直面する社会問題を解決するためのAIを育てる学習データが、日本では大量に確保できると世界中の注目の的です。日本企業は、自国の社会課題に関連した日本だけが持っているデータを、貴重な情報資源としてビジネスにするしたたかさが必要ではないでしょうか。

組込みAIチップと向き合う5年後、10年後

視点を変えると、学習済みのAIが出した答えを活用する部分にも、組込みエンジニアの活躍の場が多くあります。

現在のAIシステムでは、AIの学習は、莫大な演算能力が求められるため、クラウド上のサーバーで行っています。そして、AIが出した答えをモニターで表示し、それをユーザーが活用するのならば、分析や判断もクラウド上で実行しています。このようなシステムは大手ICTベンダーの仕事になります。ただし、製造装置や自動運転車、ロボットなどをAIで制御する場合には、リアルタイム性やセキュリティを確保するため、こうしたシステム構成を採ることはできません。学習済みのAIのコピーを制御対象となる機器中のGPUやFPGAに移植し、現場で分析や判断をする組込みAIシステムを搭載することになるのです。そして、組込みAIシステムが出した分析や判断の結果を基に、機器を制御するデータを作り出すシステムも併せて必要になります。こうした処理を実行する組込みAIシステムは、マイコンだけで構成することはできません。非力すぎるのです。GPUやFPGAとマイコンを組み合わせて、効果的なシステムを構成できるスキルが求められます。

さらに、今後5年から10年掛けて、組込みAIシステムの開発は大きな変化が起きることが確実です。クラウド上のAIのコピーを組込みAIシステムに移植するのではなく、現場で学習し判断できるAIチップが、IBM、Google、Intel、Qualcomm、富士通、NECなど大手ICTベンダーや半導体メーカーの手で着々と開発されているからです(図4)。開発中のAIチップは、演算器とメモリーが一体化した、非ノイマン型アーキテクチャーを採ります。このため、これまでの開発手法とは全く別の方法でシステム開発を進めることになるでしょう。強調しておきたいのは、各社が開発しているAIチップは、組込みAIシステムの高度化を狙っているものであり、組込みエンジニアはその開発動向に無関心ではいられないということです。

図4 開発が進むAIチップ

ほとんどの価値がデータに宿るAI時代のICTシステムでは、ユーザーもサプライヤーも仕事の内容が一変することでしょう。データの蓄積と新たなスキルの醸成、対応する体制の整備が欠かせません。これらは全て、一朝一夕ではできないことばかりです。のんびりと情勢を眺めて、必要に応じて最新のAIシステムの導入や技術に対応すればいつでも追いつけると思ったら大間違いです。「AIがどの職業を奪う」のかといった議論が盛んに行われていますが、確実に到来するAI時代にいかに適応すべきか、一刻も早く考え、行動することが大切です。

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